てつを
哲学を学んだことはないんだが、物事を深く考察しようと試みることは螺旋階段に似てると思う。
正しい答えを求めて考えて考えて、ふと気がつくと元の場所に戻ってたりする。
でもそれは散々考えた上での元の場所(によく似た)だから。
東から太陽が昇ってきましたね
そうですね
同じ方向に居るから東からの日の出は同じように認識しているが、高低差があるからその目に映る風景は少し違うはず。
1周回ってきた方は、階下の論理の欠落がよくわかると思う。
周回の少ない方からはわからないだろうけど。
林修の生きざま大辞典という番組で中島義道という哲学者を取り上げていた。
実質30分ほどの番組なので内容はとても薄い。
きっと本当に入口の看板くらいしか紹介していないはず。
だって、あまりに薄っぺらいから。
林先生は中島さんに心酔していて、話し方がTV的ではない。
対してふかわりょうがゲストだったんだが、彼は所謂TVタレントっぽく話す。
短い言葉でオチをつけようとする。
この辺のかみ合わなさもよくなかった。
ふかわりょうだってきちんと話せるだろうに。
紹介されてたエピソード全てに言いたいことがあったんだけど、長くなるので少しだけ。
例えば「常に感謝の気持ちを忘れない人」が嫌いなんだとか。
常に感謝を忘れるな、と言う人は他人に同じように感謝されることを期待するから、だそうな。
そうかな。
常に感謝を忘れない、の入口に立ったばかりの人はそうだろうけど。
少し考えれば、知らず知らずのうちに相手に期待している自分、というものに気付くはず。
それで、いやいかんいかん、と自分を戒めている人はそれなりにいると思うけど。
あらゆることに感謝する、しかし見返りを求めない、という生き方が俺は正しいと思う。
本を読み進めると同じような内容らしいんだけど。
まあ、たしかに多くはないと思いますが。
これだけやってやっているのに、って本気で言う人がいるしね。
醜い言葉だと思う。
とても残念な気持ちになる。
「常に感謝の気持ちを忘れない人」が嫌いと書いてもいいんだけど「常に感謝の気持ちを忘れない人」が好きと書いても良いじゃないか。
「常に感謝の気持ちを忘れない人」が好きだ、ただし、みたいな。
「私たちの手でまちをうつくしく」という横断幕。
ゴミを捨てないように、という意味らしいのだが、この横断幕が一番美しくないと市役所にクレームをいれたんだとか。
たしかに横断幕は無様だと思うけど、あれはきっと上から「何かやれ」と言われた若手役人が目に見える「何か」をしなきゃ怒られるから「まあこんなかんじでいいんじゃない」ということでやったことだと思える。
中島さんがどういう内容のクレームをいれたか知らないが、「横断幕を外せ」じゃなく「ああいう横断幕を付ける決定を下した構造を変えろ」と言わなければいけないよね。
その辺、番組では一切触れず。
きっと後者なんでしょうけど、誤解が生まれかねないよな。
常に自分を疑えと爆笑問題の太田もよく言うけど、本当にそこに尽きるんじゃないかな。
マジョリティに属した考えに沿って発言しているから自分は正しいのだ、と思い込んでる人の思考はとても理解できない。
自信満々だからきっと恥ずかしいとは微塵も感じてないんだろうな。
こういう話って延々と続いてしまう、飲みの席の話題なら良いんだけど。
哲学という学問があって、沢山の人が学んでいるから、想像するにそれはそれは深い思考が積み重なっているんでしょう。
でも、そろそろ心理学や人間行動学、脳科学なんかと組み合わせていかないといけない時代なんじゃないかな。
理想を言うだけだからさ、人間の本能とか無視しての話だろうから何か欠落してるんじゃないかと推察してしまう。
終始イラっとしながら番組を見ていたんだが、これだけ書くってことは興味深かったということなんだろうね。
世の中のどれだけの人が考えてないんだろう。
たまに頭に浮かぶけど、その先の妄想は悪魔的になっていくから。
常識や良識とされていることや自分自身、を疑うことができている人に哲学ってどういう影響を及ぼすだろう。
必要なんだろうか。
でもきっと哲学を真剣に学んだりしてる人はそうとう上の階から風景を見ているんだろうな。
中島義道さんと同じような思考に帰結しそうだとは思うけど、対応や言葉の表現はいかがなものかと思う。
だからめったにお礼は言わない、ではなく、それもわかったうえでお礼を言う、という生き方はできないものか。
同じことでしょう、表現が違うだけで。
それによって相手が思考するかどうかの影響についても大して差はないんじゃないか。
そう考えていくと、哲学だけではなく他の分野についての研究も必要なんじゃないかな。
正しい答えを求めて考えて考えて、ふと気がつくと元の場所に戻ってたりする。
でもそれは散々考えた上での元の場所(によく似た)だから。
東から太陽が昇ってきましたね
そうですね
同じ方向に居るから東からの日の出は同じように認識しているが、高低差があるからその目に映る風景は少し違うはず。
1周回ってきた方は、階下の論理の欠落がよくわかると思う。
周回の少ない方からはわからないだろうけど。
林修の生きざま大辞典という番組で中島義道という哲学者を取り上げていた。
実質30分ほどの番組なので内容はとても薄い。
きっと本当に入口の看板くらいしか紹介していないはず。
だって、あまりに薄っぺらいから。
林先生は中島さんに心酔していて、話し方がTV的ではない。
対してふかわりょうがゲストだったんだが、彼は所謂TVタレントっぽく話す。
短い言葉でオチをつけようとする。
この辺のかみ合わなさもよくなかった。
ふかわりょうだってきちんと話せるだろうに。
紹介されてたエピソード全てに言いたいことがあったんだけど、長くなるので少しだけ。
例えば「常に感謝の気持ちを忘れない人」が嫌いなんだとか。
常に感謝を忘れるな、と言う人は他人に同じように感謝されることを期待するから、だそうな。
そうかな。
常に感謝を忘れない、の入口に立ったばかりの人はそうだろうけど。
少し考えれば、知らず知らずのうちに相手に期待している自分、というものに気付くはず。
それで、いやいかんいかん、と自分を戒めている人はそれなりにいると思うけど。
あらゆることに感謝する、しかし見返りを求めない、という生き方が俺は正しいと思う。
本を読み進めると同じような内容らしいんだけど。
まあ、たしかに多くはないと思いますが。
これだけやってやっているのに、って本気で言う人がいるしね。
醜い言葉だと思う。
とても残念な気持ちになる。
「常に感謝の気持ちを忘れない人」が嫌いと書いてもいいんだけど「常に感謝の気持ちを忘れない人」が好きと書いても良いじゃないか。
「常に感謝の気持ちを忘れない人」が好きだ、ただし、みたいな。
「私たちの手でまちをうつくしく」という横断幕。
ゴミを捨てないように、という意味らしいのだが、この横断幕が一番美しくないと市役所にクレームをいれたんだとか。
たしかに横断幕は無様だと思うけど、あれはきっと上から「何かやれ」と言われた若手役人が目に見える「何か」をしなきゃ怒られるから「まあこんなかんじでいいんじゃない」ということでやったことだと思える。
中島さんがどういう内容のクレームをいれたか知らないが、「横断幕を外せ」じゃなく「ああいう横断幕を付ける決定を下した構造を変えろ」と言わなければいけないよね。
その辺、番組では一切触れず。
きっと後者なんでしょうけど、誤解が生まれかねないよな。
常に自分を疑えと爆笑問題の太田もよく言うけど、本当にそこに尽きるんじゃないかな。
マジョリティに属した考えに沿って発言しているから自分は正しいのだ、と思い込んでる人の思考はとても理解できない。
自信満々だからきっと恥ずかしいとは微塵も感じてないんだろうな。
こういう話って延々と続いてしまう、飲みの席の話題なら良いんだけど。
哲学という学問があって、沢山の人が学んでいるから、想像するにそれはそれは深い思考が積み重なっているんでしょう。
でも、そろそろ心理学や人間行動学、脳科学なんかと組み合わせていかないといけない時代なんじゃないかな。
理想を言うだけだからさ、人間の本能とか無視しての話だろうから何か欠落してるんじゃないかと推察してしまう。
終始イラっとしながら番組を見ていたんだが、これだけ書くってことは興味深かったということなんだろうね。
世の中のどれだけの人が考えてないんだろう。
たまに頭に浮かぶけど、その先の妄想は悪魔的になっていくから。
常識や良識とされていることや自分自身、を疑うことができている人に哲学ってどういう影響を及ぼすだろう。
必要なんだろうか。
でもきっと哲学を真剣に学んだりしてる人はそうとう上の階から風景を見ているんだろうな。
中島義道さんと同じような思考に帰結しそうだとは思うけど、対応や言葉の表現はいかがなものかと思う。
だからめったにお礼は言わない、ではなく、それもわかったうえでお礼を言う、という生き方はできないものか。
同じことでしょう、表現が違うだけで。
それによって相手が思考するかどうかの影響についても大して差はないんじゃないか。
そう考えていくと、哲学だけではなく他の分野についての研究も必要なんじゃないかな。
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